群青色の空にはぼやけた白い月が浮かんでいた。その下の方はうっすらと白みがかっていて太陽の到来を予感させる。 耳に優しく流れ込むのは波の音と、砂の音。村の漁師が船を出しているのだろう。微かに声のようなものも聞こえる。 あの後、サダルは泣きつかれたのかそのまま眠ってしまった。今私の眼下でぐっすりと眠るサダルは本当に子供のようだ。私の手を握ったまま眠りについた彼の目元は涙の所為で赤くなり、睫が色濃く束になっている。泣きじゃくるサダルを宥めてはいたものの、内心いつもの何事にも動じにくい彼との落差に驚いていた。サダルがこんな風に泣くなんて。 だが思い返せば昔はよく泣いていた。こんな風に、何も言わずにただ泣いていたことがあった。捕まえた魚が死んだとか、母親が帰ってこないとか(実際留守にしていたのは一刻ほどのようだったが)、たいしたことのない理由でも彼はよく泣いていた。だがその理由を口にすることはあまりなかった。昔から、何事もしまいこむ性格だった。いつからか全く泣かなくなったが、一度決めたら梃子でも動かない性質の彼は密かにもう泣かまいと決意したことがあったのかもしれない。 わwきつく握られた手を解いてもサダルは起きなかった。よく眠っている。 布団を掛けなおしてやり、私は部屋を出た。 「サルメか」 「えぇ。部屋にいないと思ったら、こんな所で何をしているのです。危ないですよ」 冷たい潮風が頬に突き刺さる。昨日サダルと来た砂浜をずっと歩いていくと岩場があり、こちら側の波は激しく音を立てて岩を削らんばかりの勢いがあった。 そんな岩山の影になったところに、オウスは座っていた。大きな岩のおかげで風は当たらないようだ。しかしぬめり気を帯びた岩肌は足を滑らせやすい。私は注意深く彼に近づいた。 「何を見ているのです」 「……海を」 ……全くどいつもこいつも。なぜ皆してそう心ここにあらずといった風なのだ。 私は思わず無遠慮なため息を吐きかけたが、その時オウスの手の中で光るものを見つけた。大事そうに握り締めているそれは、よく見覚えがあった。 私の視線に気付いたオウスは、一度手を広げてそれを見せた。そしてすぐにまた握り締めた。 「ヒメが身に着けていた、髪飾りだ。浜辺に流れ着いていて……拾ったんだ」 「ヒメ、の……」 オウスは瞳を伏せてぼんやりと足元に打ち寄せる波を見た。 ここにきて、ヒメの存在が私にもありありと感じられた。私はどこかで、彼女の死を、彼女の終わりだと思っていた。私はオウスほどヒメと深い関わりがあったわけではないし、正直、オウスにしてもヒメをそれほどに愛していたと思っていたわけではなかった。彼がここのところ引きこもっているのも、自責の念と後ろめたさからだと思っていた。だがどうやら酷薄なのは私だけだったらしい。 彼にとってはやはり彼女の存在は大きかったのだ。サダルとはまた別の意味で。当たり前のその事実に今更気がついた。 予想だにしていなかったオウスの様子に、私は用意していた言葉を失ってしまった。 「サルメ……すまない」 「……何のことですか」 「サダル……」 オウスの声は震えていた。弟の名を口にした途端、彼の黒い瞳から幾筋もの涙が頬を伝って零れ落ちた。表情は全く変わらないというのに、その瞳からは音が聞こえそうなほどとめどなく透明な液体があふれ出ていて、私は彼が涙したという事実とともにその不自然な光景に驚きを覚えた。 かける言葉が見つからなかった。私は怒っていたはずなのだ。愛しい弟を傷つけられて。私が彼にどれだけのことを言えるかわからない。前提として、対等な関係ではないのだ。それでも彼に何かしらぶつけてやらないと気がすまなかった。それなのに、今目の前にいるオウスは私の心情などお構いなしに一人で悲しみにくれている。私の焦燥はため息となってこぼれた。 「サダルは、泣いていましたよ。貴方と同じように」 「……あぁ」 「わかっているんですか。貴方は自分の傷しか見ていない。サダルがどれだけ傷ついたと思っているんですか。自分が今世界で一番不幸だとでも思っているんですか。それなら他人を傷つける権利があると思っているんですか。オウス」 オウスは長く呼吸をするばかりで何も答えない。涙は単なる生理現象であるかのように、後から後から流れ続ける。 「なぜあんなことを。……サダルを愛していたのではないのですか。ヒメは、確かに貴方の妻だけれど……。私は、……私は貴方が本当に愛しているのはサダルだと思っていました」 「……私には、サダルを愛する資格などない」 「資格?」 「私は……自己中心的な人間だ。与えられた愛を知ろうともしない。気付いているくせに、見ない振りをして。自分の気持ちの赴くままに、好き勝手行動して。こんな私を愛してくれた彼女に、何も与えることができなかった」 「そんなの……」 サダルには関係ない。だが私の言葉はオウスの懺悔にかき消された。 「お前が、ヒメを置いていこうと言ったとき、私は彼女の気持ちを尊重した。彼女は私のために命を投げ出すことなど厭わないと知っていたからだ。私と離れることのほうが、彼女にとってつらいと知っていたからだ」 「……その通りだと思いますよ。あなたの決断は、正しかった」 オウスはゆるく首を振って涙を袖口で拭った。 「……サダルもそう言っていた。だが、違う。結果がどうこうじゃない。問題は、あの時、私自身が、彼女が傷つくことを恐れていなかったという事実だ。本当なら、無理やりにでも彼女を帰すべきだった。彼女を愛しているのなら。彼女を大切に思うのなら。なのに、私は」 「オウス……」 「彼女の気持ちを汲むことで、彼女を愛しているつもりになっていた。そうすることが愛するという正しい形だと思っていたんだ。結局それすら本心じゃなかった。彼女を愛する理想の夫を……演じていただけだった」 言葉を紡げば紡ぐほど、彼の涙は際限なくあふれ出た。 なんて、幼いのだろう。弱い人なのだろう。 こんな彼をどうしてサダルは愛しているのか。否、それは必ずしも欠点とはいえないことはわかるのだが。寧ろきっとそれはオウスの優しさから来るもので。自分にはないものだから私はやりきれないのだ。 だが恐らく、オウスはサダルの前ではこんな風に弱みをさらけ出したりしないのだろう、と私は思った。きっと私の前だからだ。何事もはっきり物事を言ってしまう性質の所為か、人に頼られることは多い。我ながら損な役回りだ。 小さな虚無感を胸の奥底に閉じ込め、私はオウスの隣にそっと腰を下ろした。