木造の扉をじっと見つめる。海辺だからだろうか、湿っぽい茶色に黒の混じった、目の前に立ちふさがる扉をひとしきり睨みつけて、軽く叩く。返事はない。もう一度叩いて、呼びかけた。すると返事の代わりに扉が開いた。 夜中だというのに彼は全く寝ぼけた風でもなく、恐ろしく冷めた瞳をしていた。 寝ていないのだろう。毎夜、彼の部屋からもれる微かな明かりを私は見ていた。 「なんだ」 「遅くに、すみません。話があって……」 彼は起きているとわかっていたから、この時間に来たのだ。だが、いざ彼を目の前にすると、自分はなんと非常識な男なのだろうと感じてしまう。言外に、彼の目もそう訴えているように見えるのだ。 「……入れよ」 そういって彼は背を向けた。私は彼の後について部屋にはいった。 私とサルメの部屋と同じくらいの大きさの部屋に、布団が一組置かれていて、窓の下に小さな机、あとはオウスの荷物が端に寄せてあるだけ。簡素で、寂しい雰囲気だった。 オウスは窓枠に手をかけて座り、そばに来るように目で合図をした。 酒が置いてある。さも自然に、杯に透明な液体を注ぎそれを飲み干す様は彼が毎夜こうして過ごしていることを物語っていた。 「で、話って?」 気だるそうに聞く彼の視線に負けそうになりながらも、私は拳をしっかり握って目線を合わせた。 「失礼かとは存じますが」 そこで言葉を切って、彼が承知するのを待った。先を促すような目は同時に真っ向からはねつけるような無慈悲を感じる。 彼の目には私はどう映っているのだろう。 「ここの所、部屋にこもりきりで。……ヒメを失ってつらいのは、わかります。いえ、きっと私が理解できないほど、つらいのでしょう。でも、オウス。こうしてずっと一人で考え込んで、後悔しても、何も変わらない」 「……後悔?」 「……サルメに聞きました。一度、サルメがヒメを置いていくよう提案したと。……でも、私は貴方の判断は正しかったと思います。ヒメを想うのなら。彼女はそういう人だった」 オウスは何も言わなかった。私は見当違いなことを言っているのだろうか。 どうでもいいような瞳もそのままで、彼は小さく息を吐いた。 馬鹿なことを言っていると、呆れられているのか。 たとえ今のオウスに適した言葉ではないにせよ、私は本心からそう思うんだ。 私は、彼女が羨ましかった。愛する人のために、その全てを捧げた彼女が。彼女の強さが。そして、強く美しい彼女はオウスの心を連れて行ってしまった。私の手の届かないところに。 ――なぜ死んだ。なぜ彼を連れていった。わかっているよ、貴方はオウスの最高の伴侶だ。私が、勝てるわけがない。 勝てる、勝てないなどと、低俗な次元で考えてしまう自分が嫌だった。一人の仲間の死よりも、愛する人と触れ合えない現実。そんな我儘な問題のほうが私には重要だった。我ながら、救えない。満たされない現状と同時に、浅ましい自分が嫌で仕方がなかった。 それでも、私はオウスのそばにいたかった。だがそれはもう叶わない。オウスの心は、永遠に彼女がさらっていってしまったのだから。 そう思っていた。サルメの告白を聞くまでは。 誰よりも私を気にかけてくれていたサルメ。いつだってサルメは隣にいてくれた。私を大切に思ってくれていた。 愛し方は様々だ。ヒメのように、ただひたすら見守り続けて相手の幸せを願う形。今思えば、聡明な彼女が私とオウスの関係に気がつかなかったはずはない。それでも彼女は何も言わず、いつでも花のような笑顔をたたえてオウスを見守り続けた。そしてサルメのように、相手に積極的に働きかけて、その深い愛を一途に注ぎ慈しむ形。 では、私はどうだろう、と考えたときに私は動揺せざるを得なかった。 彼のそばにいたい、触れたい、自分を見て欲しい。 私の気持ちは相手に望むものばかりだった。 最初からそうだった。いつだってオウスが私のもとにきてくれて。彼は私に愛を伝えてくれた。 オウスと出会う前だって、何かあればサルメが駆けつけてきてくれて。私はあまりに周りに活かされてきていた。 ――お前の悲しむ顔を見たくない。 サルメの言葉が私の頭を打った。その言葉が真理ではないか。人を愛するとはそういうことなのではないか。 「……私には、貴方を救えませんか。なんでもいいんです。思ってること、人に打ち明けることで楽になれる、きっと。愚痴でもいい、懺悔でもいい。私が聞くから。貴方の悲しみも、苦しみも……全て私に預けてくれませんか。全部受け止めます。これは私のわがままです。でも……貴方のそんな姿を、もう見ていられないんです」 私は今まで受け止めるばかりだった。今度は、私が貴方を愛したい。救いになりたい。 暗い瞳が私を見据えた。空になった杯を机において、オウスはそれをじっと見つめた。薄い月明かりに照らされて影になったオウスの口の端が歪んだのが見えた。 「へぇ……。私を救いたいって」 その言葉の意味を飲み込むように、緩慢に頷きながらオウスが言う。空気が張り詰める。 「じゃぁ、ヒメの代わりになってくれと言ったら?」 「ヒメの、代わり……」 誘うような笑み。獲物を捉えた肉食獣のような、貪欲さをたたえた瞳。オウスのこんな表情は見たことがなかった。彼の言葉の意図するところが飲み込めない。 ――ヒメの、代わり? 恐怖ゆえか。無意識に、私の喉はゴクリと鳴った。 何も言えず、視線をさまよわせる私のもとへオウスが近づいた。 そして、いつかのように口付ける。さっきまでのオウスの冷酷な空気からは想像もつかないほど、優しいキスだった。私も彼の首に腕を絡ませ、彼に応えた。 しばらくそうしていると、唐突にオウスが離れた。訳がわからず、ただ彼を見つめてぽかんとする私は馬鹿みたいな顔をしていたと思う。 少し距離をとって、オウスは再び口元を歪ませた。 「脱げよ」 杯に酒を注ぎ始めた彼は私への興味がなくなったのだろうか。こちらを一瞬見ただけでまるで軽口を叩くように発せられた言葉を私は理解できず、いや、何か言ったのかすらわからずに、グイと酒を飲みほす彼の様子をぼんやりと見ていた。 「脱げよ。聞こえなかったのか?」 今度は私を見据えてはっきりと言った。聞き間違いではない。 冗談、だろうか。冗談にしてはきついが、私はそう思うことにして引きつった笑顔を作った。そうする以外に選択肢があるだろうか。この状況を否定することで私の頭は精一杯だった。 「オウス、何言って……」 「脱げって言ったんだよ。嫌なら今すぐでていけ」 「…………」 「こんな時間に来るくらいだから、その覚悟はあったんだろう。それとも、優しく抱いてもらいにきたのか。なぁ、サダル。私を救いたいなんて言って、救ってほしいのはお前じゃないのか」 そう言ってオウスは口の端を吊り上げて笑った。 痛い。オウスの言葉が、怖い。聞きたくない。なぜ、そんなことを。 そうなのか? 私は、結局自分のためにここにきたのだろうか。 否定、できない。彼に、抱かれたかったのだろうか。そうかもしれない。わからない。 だが……オウスはきっとこんなこと望んでいない。私を抱きたいわけではない。ヒメの代わりなんて、私が果たせるわけがないのだ。そもそも彼女はこのような行為のためにいたわけではない。 オウスはただ、私を傷つけたいんだ。きっと。 ゆっくり立ち上がり、私は衣服を止めていた右肩の飾りをはずした。機械的に、身に着けていたもの全てを剥ぎ取っていく。 オウスは私を見ていない。相変わらずの無関心な表情は空になった杯を眺めたまま。 私はどこかで期待していた。彼を救えると。私なら、それができると。自惚れていたんだ。 馬鹿だな。自分があまりに滑稽で、涙が出そうだ。