ふと気がつけば我々は長い間沈黙していた。サダルももはや先ほどまでの楽しげな雰囲気は失せて、膝を抱えて自分のつま先の辺りを見ていた。


「サダル」


サダルは何も答えずこちらを見なかった。私には有難かった。彼のあの真摯な瞳に見つめられては、私はまともに話せないだろう。
だが彼の物言わぬ横顔を前にしても、私は何も言えなかった。いたたまれなさや申し訳なさからではない。単に言葉が見つからなかったのだ。

一体彼に何を言えるというのだ? 謝罪の言葉? 許しを請う言葉?
どれも不適切で不謹慎な気がした。


彼の髪に触れた。黒髪を梳るように撫でてそのまま肩に手を回すと、サダルは私の手を払いのけようとした。その抵抗が恥じらいからではなく嫌悪からであることは彼のこめる力の強さでわかった。相も変わらず自己中心的な私は抵抗を示す彼の腕ごと強く抱いた。彼の細腕では私にはかなわなかった。


「サダル、ごめん」

「いい、離してください」

「ごめん。何を言っても無意味なのはわかっている、だが私にはこうするしか思い浮かばないんだ。痛かったよな。つらかったよな。ごめん……サダル、ごめん。本当にごめんな……」


一層力を込めて抱きしめてそう言えば、サダルはふっと力を抜いた。その肩は小刻みに震えていた。壊れてしまいそうな彼の肩を、私は注意深く包んだ。


「サダル、ごめん」

「何、……なんで謝るんですか。謝ることなんてないじゃないですか。私は傷ついてなんていない」

「嘘だ。ならなぜ傷を隠すような振る舞いをするんだ」

「嘘じゃない!私は自分の意志で、貴方の部屋にいったんだ。何を傷つくことがあるんですか? 貴方は、勘違いしてる」

「勘違い……?」


こんなに強い口調のサダルは初めてだった。情けないことに、私の声色は狼狽がありありと見えていた。


「謝ることなんて何一つないんです。私は、貴方に……抱かれたかったのだし」


――抱かれたかった。


彼の言葉が脳の中枢に届くまでに時間がかかった。だがその言葉の意味を私が理解する隙を与えまいとするように、サダルは私の思考に言葉をかぶせた。


「それに、言ったでしょう。私は貴方を救いたかった。そのためならなんだってします。私だって。それくらいの覚悟はあるんです。当たり前じゃないですか。だって私には貴方が一番大切だから。貴方が、……すごく好きなんです」


サダルはぎゅっと眉根に皺を寄せて私の胸を軽く叩いた。


「体の痛みなんてなんともない。貴方のためなら、なんだって耐えられる。ねぇ、わかる……。一番痛いのは、この気持ちに……行き場がないこと」


サダルは訴えるように私の胸に額を押し付けた。我々を包む静寂をごまかすように太鼓の重低音が響いていた。


「でもそんなの、どうしようもないですよね。人の気持ちなんかどうこうしたって思い通りになるものじゃないから。誰にも強制する権利もない。でも……だからといってどうでもいいかというとそんなこともなくて。どうしようもなくて。少しでも貴方の気が休まるなら、そう思っているのに、どこかで期待してて、でも違くて……空しくて、嫌で」


サダルは取り留めなくぽつりぽつりと言葉を紡いだ。一つ一つの言葉は脈絡なく支離滅裂だったが、その意図するところがある地点に収束しているのは私にもわかった。
少し考えてみれば、彼がそう思うのも当たり前だった。それだけの行為をしたのだ。


「私がお前を愛していないと」


サダルは私の言葉に泣きそうに目を見開いた。しばらく私の瞳をじっと見つめると、そっと顔を伏せて小さく頷いた。
私が支えていなければ消えてなくなってしまいそうだった。彼の頭をかき抱いて、私は悔やんだ。


「何を言っても信じてもらえないかもしれない。私はお前にひどいことをした。心にもないことも言った。でもこれだけは本当だ。私はお前をとても愛していて、……許されたいと思っている。今更言っても取返しがつかないかもしれない、それでも……」

「そんなの、嘘だ。あんなこと、言える筈がない」


弱弱しく震えていたサダルの手は私の腕を強くつかんだ。伏せられた黒い睫の間から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。


「なんでっ……サルメは関係ない。どうしてサルメに押し付けるみたいに言うんですか。例えあなたが私を想っていなくたって、私が貴方を好きでいるくらい、いいじゃないですか。だってそんなの変えられないんです。わからないよ、貴方が私を気にかけてくれていなかったら、こんな気持ちにはなっていなかったかもしれない。でも今、私はこんなに貴方が好きになってしまったんだ。嫌いになんてなれない、ごめんなさい。邪魔だと思わないで、何も望まないから」

「お前を愛していなかったら、今こんな風に弁解なんてしていない!」

「っ……だって、痛かった。名前も呼んでくれなかった。終わったらそれきりだった。どうして……あんな形で。……耐えられるよ、耐えられるけど、悲しかった」


溜め込んでいたものを吐き出す様にそう言い切ると、サダルは俯いて嗚咽に近いため息をはいた。

震える肩に触れた指先からじわりと何かが駆け巡って、ふと頭の中を真っ白にした。もやもやと絡み合っていた、罪悪感だとか自分に対する嫌悪だとか、彼に対する愛情だとか、そういった感情がひとまとまりになってどこかに吹き飛んで、いやにすっきりしてしまった。

何も答えない私の瞳をサダルが見つめた。恐れと不安を帯びた濡れた瞳は儚く輝いていて、それすら私は好きだった。



「……私は」


後悔、罪悪、自責、彼への愛。
それは決して上っ面だけの想いではなかった。だが、結局。


「ただ、お前を抱きたかったんだ」


いろんな言葉が振るいにかけられて、残った言葉が自然と口をついて出たようだった。口にしてしまえば、安堵に似た気持ちと、現実的な恐怖が胸を埋めていく。


「お前を愛することがヒメへの裏切りになると思っていた。お前に近づくことが怖かった。今までも、彼女はきっと全てわかっていたのに、最後まで私の名を呼んで……死んだ彼女を更に裏切るなんて、できなかった。それでも……私はお前が、欲しくて」


彼を抱きしめる腕に力をこめる。強張った肩をほぐすように、何度も抱きなおす。彼が今この腕の中にいるという実感が私を支えていた。


「お前には、もう近づかないと決めていた。でも……わかった。お前に嫌われたいなんて、それこそ口実だったんだ。私は、お前を抱きたかっただけなんだ」

「オウス……」

「サダル……ごめん」


サダルが微かに震えているのだと思った。だが震えているのは彼ではなく、私だった。
自分の卑劣さが恐ろしかった。自分でも気がつかないうちに、私は欲望を彼にぶつけていただけだった。
細い指が、私の頬をなでた。その表情は何を言うべきか迷っているようだった。


「ひどい、ことをした。サダル、こんな言葉を並べたって意味はないかもしれない。でも、本当に悪かったよ。ごめん。勝手だけど、許されたい、私は」


喉から搾り出された自分の声があまりに弱弱しくて自分でも驚いたし、情けなかった。それはサダルも同じの様で、先ほどまで私を咎めていた彼の意思もすっかり失われてしまったようだった。


「オウス、わかった」

「ごめん……」

「わかったから」


それから、我々は長い間互いに触れていた。私は謝ることしかできず、サダルはそれに対する言葉が見つからなかった。いや、あったのかもしれないが、伝え方を知らなかった。だが彼の温もりはどんな言葉よりも確かに私の心を穏やかに収縮させた。