ある夜、二階に二人分の夕食を持っていくサルメを私は呼び止めた。サルメは既に階段に足を掛けていたために、その足を戻さずに振り返った。


「サルメ、置いておいていい。今日は私が持っていく」

「…………」


サルメは動きを止めた。彼の表情には小さな怯えが見えた。私は気にしなかった。
何か言いた気な彼を制するように、私は彼が盆を置くまで待った。サルメはしばらく突っ立っていたが、やがて最初の一歩を弱弱しく踏み出して我々のところに戻ってきて、盆を置いた。
ヒメは黒目がちの瞳を少しだけ見開いて、私達の様子をなんとも言いがたい面持ちで見ていた。カチャカチャと箸を動かす音がいやに響く夕食だった。






「ん……サルメ」


階段を上り、小さな火が見えたとき、か細い声が聞こえた。
部屋の中央のあたりで心もとなく部屋を照らす火は動物の脂を炊いたものだった。サダルはその明かりが足音の正体を照らすのを待っていた。


「残念。私だ」

「……オウス!?」


サダルは視線だけをこちらに向けた。彼は、水を含ませた額にあてがった布を、自分の手で押さえながら横になっていた。その様子がいかにも病人らしく、弱弱しく見えて、私はまずその布をそばにおいてあった桶で、新鮮な水で湿らせてやった。
最初は驚いて起き上がろうとしたものの、そうする体力がないのがわかると横を向いてみたり、挙動不審にしたりしていたが、やがてそれにも疲れたのか、サダルは最初の姿勢に戻ってぼんやりと天井を見つめていた。私が彼の額に布をあてがってやると、彼は目を細めて私を見た。


「気分はどうだ」

「少し……だるいくらい、です。大分、良くなりました」

「お前、本当強がりだな。汗だらっだらじゃないか。私には寒いくらいだというのに」

「私も、寒いです」

「なら余計にまずい」


毛布を顔までたくし上げているものだから、見えているのは潤んだ瞳だけだった。
まだ顔は赤い。くぐもった荒い息が聞こえて、私はその毛布を肩まで下げた。


「そんな布団かぶって、お前苦しくないのか」


サダルの喉からもれる呼吸音が、直接私の耳に響く。なんとかしてやりたくて、私は毛布の上から彼の体をさすった。


「オウスに……移るといけないから……あまり、息できない」

「それって、冗談?」


私が苦笑して返すと、サダルは全く表情を変えずに私を見返していた。きっと酸素が頭まで回っていないに違いない。恐ろしく反応が鈍い。というより、反応がない。


「ほら、食事。食べられるか?」


目を閉じてほんの少しだけ顎を引いたように見えた。サダルはゆっくりと腰を起こし、少し後ずさって壁にもたれかかった。

私は煮込んだ芋などを食べやすい大きさに割ってやった。
サルメはいつもどうやって食べさせていたのだろう。こっそり見ておけばよかった。料理も上手く、どちらかいうと家庭的な彼のことだから、私よりは確実にサダルの世話を上手くこなしていただろう。汁も熱いままだ。息を吹きかければある程度は冷めるだろうか。


私が料理を睨みつけながら芋を割っていると、小さな笑い声がした。ハッと顔をあげればサダルが泣きそうになりながら苦しそうに笑っていた。なにやら楽しそうだが、呼吸がさっきよりも苦しそうなので私は少し不安になって、どうした、と問いかけた。


「オウス……それ、私が食べるんですか」

「え?これ?」


ふと手元を見れば、いつの間にか芋の一つ一つがほんの小指の先程度の大きさになっていて、いかにもまずそうだった。よく、蟻が何匹かでこういうのをせっせと巣へ運んでいくのを見たことがある。


「そうだよ。この私が食べやすい大きさに切ってやったんだ」

「ふふ……。ありがとう、オウス」


サダルは緩やかに笑って、指でそれをとって口に入れた。二、三度それを繰り返し、もう大丈夫、と手で合図をした。
サダルは腿のあたりの上で組んだ手をじっと見つめていた。サダルの少し落ち着いた呼吸と、風が外で何かをカタカタ言わせる音がふわふわと部屋を漂っていた。


「私……足を引っ張ってしまいましたね」


唐突にサダルが言った。独り言のように小さく呟かれたそれを私は危うく聞き逃すところだった。


「馬鹿を言うな。お前は、ヒメを守って……」


そこまで言って、私は次の言葉を失った。

ヒメを守って……サダルは、怪我をした。命を危険に晒した。ヒメを守って。

……だからなんだ。サダルを見てみろ、こんなに弱って、痛々しくて、彼を見る私の心はきしきしと悲鳴を上げている。

サダルは少しだけ微笑んだ。私はそれが余計にいやだった。

頼むから、そんな満ち足りたような笑顔をしないで欲しい。
何も上手くいってはいないんだ。


「サダル……。お願いだから、無茶はするな」

「でも、私は……」

「どうか、傷つかないでくれ……」


私はそっとサダルを抱きしめた。彼の体から不自然な熱が伝わってきて、私は涙が出そうになった。


「オウス……」

「お前に、傷ついて欲しくない。本当に、嫌なんだ。怖い」

「オウス、風邪、移る……」


口ではそう言いながらも、サダルは私を押しのけようとはしなかった。その力もないのかもしれない。私は彼を抱きしめる手に一層力をこめた。

ヒメの細くて柔らかい、力を入れれば壊れてしまいそうな感覚とは違う。
細くても、もっと力強くて、どんなに強く想いを注いでもそれを受け止める体。傷口のない方の肩は丸みを帯びていて、その後ろは骨ばっている。腰の辺りは服の上からでも引き締まっていることがわかる。私はその全てに念入りに触れて、彼を優しく包んだ。