何十人もの女の足がずらっと向こう側まで並んでいる。女達の顔は見えない。黒いヴェールをかぶっているからだ。だがその下に不敵な笑みが隠されているのであろうことは想像がついた。高いヒールを履いた長い足を揃えて、一歩一歩威圧的な音を立てながら軍隊のように向かってくる。 ジグモンドは心臓の止まるような思いで、死に物狂いで逃げた。足元は氷の床、壁も分厚い氷でできている。まだ溶けてはいない。溶けたら滑って走れなくなる。溶けてしまう前に逃げ切らなければ……。 騒がしい音楽が聞こえ始めた。不規則なリズムを刻むドラムの音、目立ちたい一心のギター音、マイクなしのボーカルのつぶれた声……知っているバンドの曲だ! そこにいけば安全だと確信を持って、ジグモンドは音の聞こえるほうに駆けだした。うねる廊下を駆け抜けた先の突き当たりに広い部屋があり、その部屋の一番奥でバンドが演奏しているらしい。だが一体どこから沸いて出てきたのか、部屋は人で埋め尽くされ、それぞれが好き勝手に騒ぎ、歌っている。めちゃくちゃな叫び声にまぎれてもはや微かにしか聞こえないギター音を求めて、ジグモンドは人混みを分け入ろうとしたが、一歩足を踏み入れたが最後、進む方向すらコントロールできないほどの密集に身動きが取れなくなった。 『誰か!』 恐怖に思わず叫んだが、喉を震わせたはずの声は誰にも伝わらない。音楽に合わせて踊る人の激しい動きに前から後ろから押され、呼吸すらままならない。異様な熱気が部屋全体を支配している。よろめく足をわずかに滑らした時、ジグモンドはハッとした。このままでは、氷の床が溶けてしまう。 他の人間にも注意を促そうとしたが興奮している人々の耳に忠告が届くはずもない。せめて自分だけでもこの部屋から出なければ……。あらん限りの力を振り絞って、逃げ道を確保しようと手を伸ばした時、ジグモンドの内臓が浮き上がった。足元の氷の床が崩れたのだ。 『わあああぁぁっ!!』 叫んだ声は水中にこもって消えた。そこは暗い、冷たい水の中だった。ジグモンドが落ちてきたはずの穴はなくなっており、水面に手を伸ばしてもそこには固い氷がどこまでも続いているだけだった。 目の前を大きな魚が横切り、さらに下の方にはもっと大きな魚が列をなして、激しい海流に乗って泳いでいる。海底の砂埃が舞い、その中からまた別の魚が姿を現す。ジグモンドの存在には気が付いていないようだった。気付かれたが最後、あのグロテスクなでかい口を開けて、きっとジグモンドは食べられてしまう。 息苦しさに、酸素を求めてもう一度上を見上げた。そこに氷はなくなっていた。見えたのは、水面を黄色く照らす光。暗い海にやるせない黄色い光を投げかけるそれは、間違いなく太陽の光だ。ジグモンドは水面に向かって泳いで行った――。 「ジグモンド!」 新鮮な酸素をようやく取り込んで、胸が活発に動き出した。心臓は激しく脈打ち、全身に血を送り込む。息を荒くして辺りを見渡したジグモンドは、そこが木造の小さな部屋であることを何となく理解した。 シャンドールが端正な顔をひどく歪めて、何とも言えない表情をしてジグモンドを見下ろしている。 「……シャンドール?」 黄色い蛍光灯の明かりの中に見える人影を一人一人確認し、なんだか見慣れない奴もいるなあなんて思っていたジグモンドはいきなりこめかみのあたりに衝撃を受けて完全に目を覚ました。 目の前でシャンドールの拳が震えていた。 「この、大っ馬鹿野郎! お前なんかいっぺん死んじまえばよかったんだ! この馬鹿!」 「……はあ?」 不当な仕打ちに思わず抗議の声を漏らすジグモンドに、シャンドールの後ろからラースロが声をかけた。 「お前な、本当に危なかったんだぞ。あの人が助けてくれなかったら、本当に死んでたかもしれないんだからな」 「あの人……」 ラースロは壁際の椅子に座って、ひたすら何かをむしゃむしゃ食っている男を示した。汚いキャップからはみ出している髪は白く、その長い髪の間から見える顔は赤ら顔である。白髪の混じった眉も伸びたい放題、その上さっきから飢えた動物みたいに食ってばかりで一向にジグモンドの方を見向きもしない。 「お前が橋から落ちた時、ちょうどその橋をホームとしていたこの人がいなかったら……」 「ああ!」 ジグモンドは思い出した。そうだ、新聞紙を毛布代わりにしていたホームレス。彼が助けただなんて。 全く、今晩は何もかもが思い通りに行かない。何もかもに見捨てられていると思って身を投げたのに、この小汚いおっさんにだけは見捨てられていなかったようだ。自殺が未遂に終わったことに拍子抜けし、でもまあ、いいか、とジグモンドは気の抜けた笑みを浮かべた。 しかし、このホームレスのおっさんもそれだけ精力的に動けるのなら何かしら他に仕事もできるのではないか、といらぬ心配をし始めたジグモンドであったが、いきなり目の前のシャンドールが大粒の涙をぽろぽろこぼし始めたことにはさすがに無反応でいるわけにはいかなかった。 「お、おい……何だよ、シャンドール。気持ち悪……」 ジグモンドは再び頭をはたかれた。それも思い切り。 「うるさい! お前は……勝手にふらふら出て行くんじゃねぇ! どんだけ探したと思ってんだ! マスターが俺に電話かけてこなかったら……お前の自分勝手な行動で、人にどんだけ迷惑かけるか、考えろ! この馬鹿野郎!」 普段冷静なシャンドールがひどく取り乱している様を見て、家出をした理由を思い返すまでもなく、ジグモンドは「ごめん」と謝っていた。シャンドールのあまりの剣幕に、おろおろと困っているジグモンドを見かねてか、ラースロがシャンドールの肩を優しく叩く。 「まあ、まあ。無事だったんだからよかったよ。起きたばっかりなんだし、ちょっとそっとしておいてやろうぜ。な?」 シャンドールは激しく肩を上下させて荒い呼吸を諌めようとしている。 ラースロがジグモンドに向き直った。 「ジグモンド、お前は今後、酒は一日に一杯! それ以上飲んだら罰金だ」 「はあ!?」 「はあ、じゃねえよ。今回のようなことがあったんだから当然だろ」 どうやら、ジグモンドの入水自殺は単に酔っ払いが足を滑らして川に落ちた、という認識で通っているらしい。茫然とするジグモンドだったが、ラースロやシャンドールのひどく安心したらしい様子を見れば、そういうことにしておいた方がいいのだろうと思って、渋々「わかったよ」と答えた。 少し落ち着いたらしいシャンドールはクリネックスで鼻をかみ、それをゴミ箱に放り投げた。そしてジグモンドの方をじっと見つめた。 「お前……まさか自分で川に飛び込んだわけじゃないよな」 至極真剣なシャンドールの言葉にドキッとした。だがジグモンドが答えに逡巡している間に、ラースロの笑い声が部屋中を割るような大きさで響き渡った。 「ばっか、ないない! ジグモンドがそんな繊細な神経してると思うか? こいつに限って自殺なんて……想像しただけで腹が割れるわ、アッハッハ!」 「てめ……馬鹿にし過ぎ」 どうやらジグモンドが自殺だと言い張ったところで誰も信じないであろう様子に安心しながら、不貞腐れた顔をするのみにとどまったジグモンドであったが、彼を見つめるシャンドールの視線はまだ何か疑わしげであった。 「ジグモンド。違うよな?」 「はっ……馬鹿、んなわけねーじゃん。この俺様が」 いつもの調子を取り戻して、カラッと笑って言ったジグモンドに、シャンドールもようやく安堵の笑みを浮かべた。 「……ほんと、心配させんなよ」 シャンドールは、何やら足元に置いてあったカバンをごそごそと漁りだした。そして目的のものを取り出すと、ジグモンドの前に放り投げた。 「お前がいないから出発も先延ばしだったんだからな。まだ熱があるみたいだから、良くなったらすぐいくぞ」 「え? ……は?」 「もうギゼラ達は先に行ってるんだ。ヴェロニカも」 放られた封筒の中には飛行機のチケット。行き先は、ロンドン。 「これ、どういうこと……」 「言っただろ、次の拠点はウェールズだって」 ジグモンドの青い瞳が瞬かれる。 シャンドールは乱れてもいない髪を手のひらで後ろに撫でつけた。そして小さな声でつづけた。 「つまり……一緒に来てくれって言ってんだよ」 ジグモンドは目の前に提示されたチケットをじっと見つめたまま何も言わない。シャンドールはと言えば、両腿の上で手を組み直し、左手の親指で右手の親指の付け根を神経質に押す仕草を繰り返すことで、ジグモンドの無反応をなんとかやり過ごそうとしていた。 ジグモンドはチケットを子細に見つめた。封筒に入っていたチケットは2枚で、ロンドンまでの航空券と、ロンドンからウェールズまでのレイルパスだった。どちらも、片道切符だ。 全く想像していなかった事態に、ジグモンドの頭は追いつかず、つまりこれからどうなるんだろう、と何度も頭の中でシミュレーションをしなければならなかった。 いや、そもそも、シャンドールがもっと早く言ってくれていれば、俺は家出なんぞしてこんなひもじい思いをすることもなかったんじゃないか、と気付いて小さな怒りが同時に生まれる。 シャンドールは未だ不安げな様子でジグモンドの反応をうかがっている。 ジグモンドはチケットをひらひらと中空で振って見せた。 「別に、俺に気使わなくたっていいんだぜ」 「気を使って言ってるんじゃない」 「俺、乗り物酔いするし、飛行機なんてなあ」 シャンドールは何も言わない。瞬きもせずジグモンドを見つめている。あとひと押し、とでも思っていそうなシャンドールの真剣な顔に睨みをきかせてから、ジグモンドは気だるい溜息を吐いた。 「でも、まあ……行くとするか」